2009年3月28日土曜日

ルーツ:木村 作治

家族から口伝えで聞いたことを書き留めておく
「ルーツ」の第2弾は祖父の木村作治
(2007年の1月に他界)。

今回は、若い20歳前後の作治が経験した
第2次世界大戦の記録です。
ラバウルで終戦をむかえた作治は
約1年ほど(?)を職業軍人として仕えました。
(以下、年月は不確実)。

*戦中の作治
1943年: 召集を受けなかったが、職業軍人に志願。

1944年:現パプアニューギニア領ニューブリテン島ラバウル
(*)へ出航。
1945年8月15日まで:ラバウルに配置された日本軍に仕える。  
 自活を強いられる日本軍
のため農業をしたり、
 高い木に登り、連合軍機の飛行状況を確認するなどしていたそう。

1946年初め:引揚げ船で帰還。栃木県足利市の家に戻る。  
 「突然家にひょっこりと戻ってきた」と祖母のハルノは語っていた。


*戦中のラバウル
第1次世界大戦後オーストラリア領であったラバウルは、
1942年に日本が占領。
ラバウルだけで陸軍合わせて9万余りが配置される。
能力の高い今村均陸軍大将の下、
東南方面への一大拠点としてラバウル航空隊の基地が築かれる。
航空機を地下に管理するほどの整備。
連合軍は
ラバウル要塞と呼び、厳しい抵抗が予想されるラバウルを
占領せず包囲するにとどめ、終戦時まで日本軍がラバウルを保持。

食糧は自活により豊富にあり、ラバウルで日本軍からの降参はでず。

*ニューギニアの戦い
ラバウルのあるニューブリテン島の西、ニューギニア東部で
激しい戦いでは、
日本軍から12万人の死亡がでる。
1942年7月より、連合軍の拠点があったニューギニアの東部ポートモレスビー
(現パプアニューギニア首都)に、約16万人の日本軍が上陸。
連合軍が優勢の中、制海権・制空権を失った日本軍への食糧補給は減り、
1945年3月に最後の補給が与えられて以来終戦まで
戦友の人肉を食べながら生き残るものもでる。
飢えやマラリアで死亡する者も多く、連合軍に降参する部隊もでる。

ここから帰還できたのは約2万人。


拡大して見るには、地図上をクリック)

私は祖父作治と、11歳まで栃木県足利市で一緒に住んでいました。
私がよく覚えているのは、トラックに小型プロペラ機(?)を
積んで出かけ行く祖父。
家の上を飛んでくる祖父の飛行機にと、
兄弟と一緒に兄弟と手を振っていました。
この趣味もラバウル航空隊から受けた影響だったのでしょう。

後に違法な場所を飛んでしまって、自慢の飛行機は
警察に没収されてしまいました。
早朝に警察が押しかけてきたときは、
警察を家に入れるまいと祖母ハルノが
体を張って下着姿で玄関に出て行ってとか。

海外旅行が好きだったおじいちゃんの
地球儀には、今でも中国、東南アジア、北米、南米と
色々多くの訪問地に印が残っています。





2009年3月20日金曜日

タイのレストラン

タイで訪れた場所で、もう一度戻りたいなと思っている
場所を書いておきます。
近々タイに遊びに行く友達からお薦めの場所を聞かれて、
詳しい記憶を辿っていることもあり。

いずれも訪れたのはバンコクに住んでいた
2005年11月-2007年4月の間。

まず第1弾はレストラン。

<レストラン>
●Som Tum Bangkok (バンコク市内・スカイトレインAri駅より徒歩3分、Soi Ari 3)
 イサン料理(東北タイ料理)がおいしい。
 1人600-700円くらいでビールも飲んでご飯を食べられる。
 ここでおいしいもの
 ・ガイ・ヤーン(タイ風チキン焼き鳥)
 ・ ソムタム(パパイヤサラダ)
 ・ラープムウ(豚挽肉のスパイシーサラダ)
 ・ゲーンキョウワン(グリーンカレー)
 ・チャーハン又はカオニアオ(もち米)




● 雲南飯店
 ビルマ・シャン料理/雲南料理のヒヨコ豆の豆腐スープヌードル。
  通称 シャン・ヌードル。
 (バンコク市内・スカイトレインのラチャテリー駅より徒歩10-15分、
 ペチャブリー通りから入った中国人街の細い路地の中)

 とても狭く汚い店で、熱いときは上半身裸の雲南省出身の店長と
 子供がテレビでパワーレンジャーを見ている。
 英語は全く通じない。
 
 1杯100円もしないこのシャンヌードルは忘れられない。



少し味は違うが、高田の馬場のシャンレストラン
ノンインレー」でも食べられる。

2009年3月7日土曜日

ルーツ:谷 駒太郎

備忘録というよりは、歴史の記録/貴重な家族の記録。
「ルーツ」というカテゴリーで先祖について
家族から口伝えで聞いたことを書き留めておくことにしました。

といってもひいおじいちゃん・おばあちゃんまでしか遡れないし、
断片的にしか知らないけど、戦前・戦後で日本の歴史に彼らが
果たしてきた役割を整理しておこうと思いました。

1弾目は、ひいおじいちゃんの「谷駒太郎」について。

1880年代、栃木県佐野市(当時の下野国)に生まれる。
82歳で生涯をとじるまで、明治・大正・昭和を通し同市で過ごす。

農家としてこの時代を佐野市で過ごした駒太郎は、
足尾銅山鉱毒事件(*)の農民反対運動に参加することとなる。

足尾銅山から流れ出た鉱毒で、駒太郎の農地へも被害がでる。
同じく佐野市出身の衆議院議員田中正造が率いる
鉱山反対運動に参加。
他の被害農民とともに、東京へ歩いて陳情に行く。

田中正造が1913年に支援者の家で倒れ、その1ヶ月後に
息を引き取るのを他の支援者とそばで見取る。


*足尾鉱山鉱毒事件
日本で初めて、農民による反対運動があり
企業からの補償金が支払われた公害事件。
足尾銅山は、明治維新後民営化され、
1877年に古河財閥の古河市兵衛が経営を始める。
その後古河鉱業の近代的鉱山技術の導入で、東アジア一の銅産出地になる。
しかし、排水に含まれる鉱毒などにより地域に大きな環境被害をもたらす。
日清・日露戦争中に銅の需要が上がり、政府は鉱山をすぐに閉鎖することはできず、
田中正造率いる被害農民の反対運動が活発に行われる。

<年表>
1885年:渡良瀬川で鮎が大量死し、鉱毒の被害が明らかになり始める。
 その後同川から取水する田の稲が枯れるなど被害が広がった。
1891年: 衆議院議員田中正造が国会で鉱毒について質問を始める。
1896年:古河鉱業は被害農民へ示談契約書を持ちかけ、
 示談金の代わりに鉱毒事件の請求権を放棄するよう農民に提示する。
 これを拒否した農民も多く、反対運動は終らず。
1896年:群馬県邑楽郡渡瀬村(現在の館林市下早川田町)の雲龍寺に
 栃木・群馬両県の鉱毒事務所が設立。被害農民の集結所となる。
1897年:被害地の農民が大挙し、東京に陳情。
 当時陳情は「押出し」と呼ばれる。

 政府は、足尾銅山鉱毒調査委員会を立ち上げる。
 大規模な明治期 の押出しは6回(1897年3月2日、1897年3月24日、
 1898年9月26日、1900年2月13日、1902年2月19日、1902年3月2 日)。
1900年:川俣事件。2月13日に押出しに出かける農民と警官が衝突。
 農民67名が逮捕され、うち51名が兇徒聚集罪などで起訴。
 1902年12月に、仙台控訴審で起訴無効という判決が下る。
 全員不起訴で決着。

1901年:衆議員田中正造が議員を辞職し、鉱毒事件に関して天皇に直訴。
1907年:政府は反対運動の拠点であった谷中村を廃村し、
 住民を強制的に移住させる。

1910-25年:渡良瀬川改修工事。流れの向きを変え、鉱毒の被害が減少。
 谷中村を遊水地に。

1913年:田中正造他界。反対運動もほぼ終焉。
1960年:足尾ダム建設(足尾町に銅山からの土砂流出を防ぐため)。
1973年:銅は掘り尽くされ閉山。
1980年代:精錬所は続けて操業。鉱毒はその後も流される。

(ちなみに1979-1990年の間、私は子供時代を足利市の渡良瀬川流域で過ごしました!)

駒太郎の農民反対運動への参加について
詳しいことが分かったら追記します。

駒太郎が亡くなった後、家の書庫に積んであった文献を
当時小学生であった孫の郁子(私の母)は
誤って大量にごみに出してしまいました。
わら半紙に書かれている古めかしい文書はよく分からないが、
学校の勉強にも使えなそうだし、ただ汚らしいと思ったとか。

後に、田中正造に関する文献が残っていないか
尋ねる者もあったらしいが、悔やんでも後の祭り。

田中正造没後100年目に当たる2013年は、
佐野市で関連イベントが色々企画される予定らしい。