家族から口伝えで聞いたことを書き留めておく
「ルーツ」の第2弾は祖父の木村作治
(2007年の1月に他界)。
今回は、若い20歳前後の作治が経験した
第2次世界大戦の記録です。
ラバウルで終戦をむかえた作治は
約1年ほど(?)を職業軍人として仕えました。
(以下、年月は不確実)。
*戦中の作治
1943年: 召集を受けなかったが、職業軍人に志願。
1944年:現パプアニューギニア領ニューブリテン島ラバウル(*)へ出航。
1945年8月15日まで:ラバウルに配置された日本軍に仕える。
自活を強いられる日本軍のため農業をしたり、
高い木に登り、連合軍機の飛行状況を確認するなどしていたそう。
1946年初め:引揚げ船で帰還。栃木県足利市の家に戻る。
「突然家にひょっこりと戻ってきた」と祖母のハルノは語っていた。
*戦中のラバウル
第1次世界大戦後オーストラリア領であったラバウルは、
1942年に日本が占領。
ラバウルだけで陸軍合わせて9万余りが配置される。
能力の高い今村均陸軍大将の下、
東南方面への一大拠点としてラバウル航空隊の基地が築かれる。
航空機を地下に管理するほどの整備。
連合軍はラバウル要塞と呼び、厳しい抵抗が予想されるラバウルを
占領せず包囲するにとどめ、終戦時まで日本軍がラバウルを保持。
食糧は自活により豊富にあり、ラバウルで日本軍からの降参はでず。
*ニューギニアの戦い
ラバウルのあるニューブリテン島の西、ニューギニア東部での
激しい戦いでは、日本軍から12万人の死亡がでる。
1942年7月より、連合軍の拠点があったニューギニアの東部ポートモレスビー
(現パプアニューギニア首都)に、約16万人の日本軍が上陸。
連合軍が優勢の中、制海権・制空権を失った日本軍への食糧補給は減り、
1945年3月に最後の補給が与えられて以来終戦まで
戦友の人肉を食べながら生き残るものもでる。
飢えやマラリアで死亡する者も多く、連合軍に降参する部隊もでる。
ここから帰還できたのは約2万人。
(拡大して見るには、地図上をクリック)
私は祖父作治と、11歳まで栃木県足利市で一緒に住んでいました。
私がよく覚えているのは、トラックに小型プロペラ機(?)を
積んで出かけ行く祖父。
家の上を飛んでくる祖父の飛行機にと、
兄弟と一緒に兄弟と手を振っていました。
この趣味もラバウル航空隊から受けた影響だったのでしょう。
後に違法な場所を飛んでしまって、自慢の飛行機は
警察に没収されてしまいました。
早朝に警察が押しかけてきたときは、
警察を家に入れるまいと祖母ハルノが
体を張って下着姿で玄関に出て行ってとか。
海外旅行が好きだったおじいちゃんの
地球儀には、今でも中国、東南アジア、北米、南米と
色々多くの訪問地に印が残っています。
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